hanamameizumiの日記

日常的に考えていること。

食べること。

皆さんはどんなカレーが好きですか?

甘口・中辛・辛口、ドライカレー・グリーンカレー・ジャワカレーなど。

私は、一般的なカレーで中辛が好きです。

入れる具はノーマル(人参・ジャガイモ・豚肉・玉ねぎですか)。

 

本日、ある方と話をしていて「死ぬ前に何が食べたいか。」という

ベターな話をしておりました。

その方曰く「あんこ餅が食べたい。」とのこと。

理由を聞くと、「昔は家で良く作った(高齢の方です)、今は病気なので食べれなくなったから。」

「あなたは何が食べたい?」と聞かれたので、

カレーと答えました。

私の場合は、特に理由はないのですが、

カレーが好きなので、そう答えました。

皆さんはいかがですか?

 

私の場合は、普段食に目が行くことは少なく、どちらかというと

「腹が膨れればいい。」

と思っているタイプです。

しかし、このように改めて「死ぬ前に何が食べたいか。」と問いかけられると、そこから、食に対する考え方というか、

「食べることは大切で意味のあること。」

と思いました。

毎食、難しく考えながら食べる必要はないと思いますが、

「食べることを大切にする。」

みたいなことは、これから少し意識していこうと思います。

ちなみに今日はカレーを食べました。

細雪。

寒いですね。

これだけ寒いと「早く夏になれ。」

と言いたくなります。

あれだけ暑かったのに。

人間とは、つくづく勝手なものです。

 

寒くなると気になるのが雪です。

雪も多少であれば、綺麗なのですが、1度に何メートルも降ると交通障害や農作物被害など、人的な影響も大きく、厄介なものになります。

 

人の「親切」も、同じかも知れません。

適度な「親切」は、相手にとってとても有り難いですが、限度を超えた「親切」は、時に迷惑になります。

 

職場にも、「親切」な人がいて、気を利かせて色々世話を焼いてくれるのはいいのですが、あまりにも「親切」が過ぎて時に迷惑。

もっと言えば、うっとおしく感じます。

大変申し訳なく思うのですが、しょうがないです。

 

ただ、無下にも出来ないので、とりあえず

「そんなに気を使わなくて大丈夫ですよ。」

と言っています。

 

「親切」も雪と同じように、

細雪」程度が良いのではないか、という話しでした。

 

 

 

歯車。

「自分は組織の歯車。」

「歯車だから替えがきく。」

たまにそう考えることがあります。

 

フェルマーの最終定理

皆さんもご存知かと思います。

最近になって、この本を読んだことを思い出しました。

引用:www.shinchosha.co.jp

読んだのは、10年くらい前だと思います。

なぜ読もうと思ったのかは、ナゾです。

もちろん、数学的なことは、まったく理解できませんでした。

しかし、”フェルマーの最終定理”が証明されるまでのプロセスやアンドリュー・ワイルズの生き方などが描かれており、最後まで興味深く読んだ覚えがあります。

 

この本の中で、”谷山ー志村予想”というものがでてきます。

これまた、内容はまったくわかりませんが、”谷山-志村予想”が、

フェルマーの最終定理”の証明を現実のものとしました。

いわば、”谷山ー志村予想”という替えがたい歯車が、”フェルマーの最終定理”を証明する大偉業へと導いたと言えます。

 

 

「自分は組織の歯車。」

「歯車だから替えがきく。」

たまにそう考えながらも、同じ歯車の一つとして働くのであれば、少しでも何かを成し遂げたいと思いますし、

「”この人でなければ”、”他に替えがきかない”そんな歯車でありたい。」

 

この本を読んだ頃を思い出しながら、そう思いました。

 

 

感謝。

”感謝”という言葉。

やはりいいですね。

「ありがとう」や「嬉しい」「おかげさま」「助かりました」などなど。

一方で、人を傷つける言葉や貶める言葉など(ここでは書きませんが。)もありますが、やはり嫌なものです。

 

人は、言葉によってもコミュニケーションをとる生き物ですが、

なぜ、人を傷つけたり貶める言葉が生まれたのでしょうかね。

不思議ですが。

 

もしかすると、人も動物と同じく、生き残るための争いの中で、

身体だけでなく、心も傷つけることが効果的であると考えてきたのかも知れません。

 

現在の戦争も実際の攻撃だけでなく、フェイクニュースなどで相手に心理的ダメージを与える場合もあるようです。

愚かしいこととは思いますが、これも人の本質なのでしょうか。

 

”感謝”の言葉は人を癒す力があり、争いを防ぐ働きがあります。

単純な考えですが、世の中に”感謝”の言葉を広げていけば、争いは少なくなっていくのではないでしょうか。

 

今年もあと二週間となった今、”感謝”の言葉で締めくくりたいと思う今日この頃です。

天網恢恢疎にして漏らさず。

天網恢恢疎にして漏らさず

「天網」とは、天の張りめぐらす網のこと。
「恢恢」は、広くて大きい様。
「疎」は、目が粗いこと。
天が悪人を捕えるために張りめぐらせた網の目は粗いが、悪いことを犯した人は一人も漏らさず取り逃さない。天道は厳正であり、悪いことをすれば必ず報いがある。

引用:故事ことわざ辞典より

いや。確かにそうですね。

私も昔から「自分は悪いことはできない」と思っていました。

悪いことをすると考えること自体問題だと思うのですが、

人間誰しもそういう時は、あるような気がします。

”悪いこと”とわかっていてする場合。

”悪いこと”とわかっていなくてする場合。

私の場合は、前者ですが、昔から必ずといっていいほど、

そのすぐ後に、自分に”報い”がきます。

もしくは、その過程で”報い”がきます。

なので、今は”悪いこと”をあまり考えなくなりました。

結果的には良かったのですが。

 

世の中には、”悪いこと”を平気で行い、平気な顔をして、

平気で毎日を過ごしている人もいると思います。

おかしいですよね。

でも、おかしいと思っていても、私人逮捕のように、人が勝手に裁くのは

いただけないと思います。同じ人ですから。

あと、私の経験上、必ず”報い”は来ると思います。

まさに、「天網恢恢疎にして漏らさず」です。

 

 

自己効力感と自己肯定感。

今更ですが、最近「自己効力感」と「自己肯定感」について、考えることがありました。

 

職場の同僚と二人の新人について話しているとき、

「二人の新人に共通しているのは、”自分はできる!”とは思っていないが、”間違いは受け入れない”ですね。」

と共通認識を持ちました。

要するに、「自分に自信はないが、能力は高いと思っている。」になるでしょうか。

困りました。

問題は、これがわかったとして、どのように対処すれば良いのか。

能力が高いと思っているので、誤りに対する指摘は受け入れ難くなる。

しかし、自分に自信がないので、あまり厳しく指摘すると、「全否定」

されたと錯覚してしまう。

どうしたものでしょうか。

もちろん、我々としては、いたずらに新人をつぶす気は毛頭ありません。

ですが、誤りは修正しなければなりません。

 

恐らく、こうした悩みを抱えているのは、私でけではないと思います。

未だに結論はでませんが、悩みながらやっていくしかないと思っています。

しかし、「自分に自信はないが、能力は高いと思っている。」

本人達もこれから大変だと、少し思いました。

量子コンピューター。

量子コンピューター」は、皆さんもご存知かと思います。

数年前から、話題になっており、次世代のコンピューターとして期待されています。

といっても、「すごい計算が速い」くらいしか、私はわかっていませんが。

でも、改めてすごいなと思ったのは、「量子」という目に見えない存在を信じて、

その存在を明らかにし、コンピューターという私たちの生活に不可欠なものにまで昇華させたことです。

 

そこに行き着くまでの関係者の苦労は知る由もありませんが、飽くなき努力に敬意を払いたいと思います。

量子コンピューター」もいずれ、私たちにとって”当たり前”な存在となっていくのでしょうか。

 

 

世の中には様々な”当たり前”が存在します。

月並みですが、その”当たり前”が存在するまでには、様々な人たちの苦労があるのだと思います。

これは、大きな発明などに限らず、身近なところにも存在すると思います。

例えば、毎日のご飯。

ごみの収集。

職場のトイレがいつもキレイなこと。

など。

 

今の世の中、サービスやモノが”当たり前”に、存在するので、つい忘れてしまいがちですが、”当たり前”が存在する陰には、”当たり前”に誰かの苦労が存在する。

 

なぜかそんなことを珍しくまじめに思った一日でした。